■がっちゃんがきっかけで福祉に
2015年1月、川崎市宮前平にある放課後デイの「アインシュタイン放課後」から全てが始まりました。それまで私はBSジャパン、ヤフージャパン、東京ガールズコレクション、KITSONなどでプロデューサーとして働いてきました。
⇒興味のある方は詳細をどうぞ
息子であるがっちゃん(楽音・がくと)は、IQ25の知的・言語紹介を持っており、A2の重度の自閉症で、強度行動がついている多動症の持ち主です。地球では「障害者」扱いですが、自閉症は別の惑星からきた宇宙人だ、と私は勝手に解釈しています。
がっちゃんは、2001年5月1日に横浜市東戸塚で生まれました。ハイハイをすることはなく、六ヶ月目でいきなり歩き始め、1歳の頃には散歩をしていました。赤ちゃんの時からよく癇癪を起こす子で、他の子よりも大変だなとは思っていました。
今思えば自閉症サインははやいうちから出ていました。積み木を縦に積み重ねたり、ミニカーを横に一列に並べていました。
バナナから、レストランのお皿まで全部縦に積み上げていました。
ビデオも積み上げるようになり、崩れると癇癪を起こす、という大変なループでした。車が赤信号で止まると癇癪を起こす。散歩も毎回2時間歩くとか、大変なこだわりは無数にありました。
がっちゃんが自閉症だとわかったのは3歳児検診の時です。自閉症について何も知らなかった私は「自閉症は治療すれば治る」という勘違いから始まりました。そこでいろいろと調べた結果、自閉症対策が進んでいるロスアンジェルスに2005年に引っ越すことにしました。
そしてアメリカで様々なセラピー・プログラムを観察する機会に恵まれました。アメリカの学校の特別支援は日本よりもはるかに制度が進んでいました。IEP(個人計画)のつくりこみから、セラピストの派遣まで万全な体制でした。
しかしそこである事に気づきます。がっちゃんは支援学級の他の生徒よりも一番手がかかりました。極度の多動症で、どんなセラピストも彼の行動をコントロールすることはできませんでした。さらにIEPで定めた成長目標は、彼の自然成長を超えることはありませんでした。
その時から「自閉症は治すものではない」と気づきました。それよりも大事なのは「人との関わりこそが肝だ」と感じました。がっちゃんには療育プログラムそのものでなく、お気に入りのセラピストたちと時間を過ごす事が貴重な体験となりました。
それから9年経ち、日本へ帰国してきました。そしてがっちゃんの居場所をつくるべく福祉にチャレンジすることにしました。「がっちゃんの成長に合わせて事業を拡大する」が最初に掲げた目標でした。そして最初にアインシュタイン放課後デイをつくりました。
宮前平中学校の支援学級に通っていたがっちゃんですが、進路の話になりました。通常の就労支援を目指す支援学校は彼に合わないと判断しました。そこで自前で文部省認可の「ノーベル高等学園」をつくりました。
この年には、がっちゃんの将来を見据えてグループホームと、ピカソの就労支援をつくりました。「自閉症の一生のインフラを構築する」がアイムのテーマです。
この頃にちょうどココさんがアイムへ入社。そして岡本太郎の美術館へ遠足にいきました。この時に絵の前で5分間じっとしているがっちゃんがいました。絵に関心をもったよりも、1箇所にじっとしていたことが驚きでした。
そして翌日教室にくると「Gaku, Paint!」といって突然絵を描き始めました。がっちゃんが16歳の時のことです。
がっちゃんは、2020年にノーベル高校とアインシュタインを卒業しました。現在アイムの放課後デイは、エジソン高津、モーツアルト新百合、ダヴィンチ武蔵中原と4箇所あります。
それから就労支援を目指す生活介護のピカソ・カレッジに入所しました。そして今は高津のアトリエで、アーティストGAKUとして活動をしています。
⇒byGAKUのブログ
がっちゃんがここまで成長できたのは、彼を支えてくれたアイムのスタッフの存在です。療育でがっちゃんが社交的になったり、絵を描くようになったわけではありません。「人」をつくるのは「療育」ではなく「人」です。
⇒『GAKU, Paint!』自閉症の息子が軌跡を起こすまで
自閉症がっちゃんが、アーティストGAKUになるまでの物語。横浜での幼少時代から、ロスアンジェルス、川崎までの子育て体験記。もし「絵」がGAKUの言葉であるならば、彼は相当なおしゃべりだ。自閉症の豊かな内面の世界が見えてくる感動の一冊!
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